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zoom RSS 台湾歌壇の細幼さま

<<   作成日時 : 2011/10/26 13:14   >>

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国交を結んでいない台湾からたくさんの復興支援が届いたという。ほんとうに感謝の念でいっぱいになる。台湾の沢山の方々が心を寄せてくださるのに国交がないのは残念でならない。

台湾を近代的な姿にしたのは日本。両国の絆はとても深い。
終戦までの50年間、日本が台湾を統治し、産業を保護したり生活様式などを変えた。列強の国々がなしえなかったことを日本がやり遂げたと、世界が驚嘆したほどだ。
交通網の整備、大規模水利事業などを実施し製糖業や蓬莱米(台湾のお米)の生産を飛躍的に向上させた。経済面でも専売制度を採用し過当競争を防止するとともに台湾財政の独立化を実現した。

統治の当初は抗日武装運動があって武力で鎮圧したけれども、後に、教育制度の拡充に切り替えた。義務教育制度を施行し、台湾人の就学率は1943年の統計で71%とアジアでは日本に次ぐ高い水準に達した。学校以外にも主に実業系の教育機関を設置し、行政、経済の実務者養成を行うと同時に、大量の台湾人が日本に留学した。

衛生面の改善にも力を注いだ。当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延していた。特に飲み水の病原菌汚染がひどく、「台湾の水を5日間飲み続けると死ぬ」とまで言われていた。そこで近代的な上下水道を完成させ、南部の乾燥と塩害対策として、烏山頭水庫(うさんとうダム)と用水路を建設した。また、アヘン常習者が多かったので、アヘン常習者には免罪符を与えて免罪符を持たない者のアヘン使用を禁止した。
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  烏山頭水庫(ネットより拝借)      烏山頭水庫付近(ネットより拝借)

世の中便利になったもので、ネットで調べれば親が過ごした時代がこのように即座にわかってしまう。
そう、父が台湾の学校の訓導だったため、台湾は私にとっても重大関心事である。

日本の台湾統治で注目すべきは、やはり教育を徹底させたことだと思う。母国語の使用を禁じて日本のことばの生活を命じた。その教育の担い手として、内地(日本本土)の教師がかり出された。奇しくも、私の父もその一人であった。

父は新潟の地主であったが教師でもあったため、国命を受けて台湾に単身赴任したのである。それは第二次世界大戦勃発二年後の1941年の9月であった。この年の3月に末の弟が生まれたばかりであり、生後間もない乳飲み子を残して彼の地へ赴任しなければならなかった父の思いはいかばかりだったか。

同じように台湾に派遣された人の話によれば、当時は家族同伴がほとんどで、単身赴任は聞いたことがないという。では、父はなぜ単身赴任を選んだのだろうか。それは、地主としてのこだわりがあったものと思う。これについては改めて触れるとして、先ずは父の教え子さんたちについて書くことにする。

父が台湾に行った年に末の弟が生まれたことは先にも触れたが、その同じ年に私が国民学校初等科に入学しているのだが、ちょうど国内の何もかもが戦時体制へと変貌していったときであり、それまで尋常小学校と言っていたのが国民学校ということになった。

兄と姉は台湾の父によく手紙を出した。私もならって手紙を書いたし、時には絵も添えた。その手紙や絵は、ずっと後になって父の教え子さんから聞いた話だが、父は教室に展覧して我が子の様子を生徒らに説明したのだという。
父からは「竜眼」という干した果物が時々送られてきて、それがとっても美味しくて、次の到着を待ち望んだものだ。果肉がうすくて種が黒くおおきいので、竜眼という名前に、子供心にも納得したものだった。

そうこうして五年がたち終戦となる。その翌年の1946年4月に、父は新潟に戻った。本土への上陸は広島県の大竹港である。

父の教え子に王春財さんがおり、その王さんからずっと後になって聞いたのだが、終戦当時の台湾でのエピソードがある。

当時の台湾では、すべて日本が優先で、日本人はだいぶ威張っていたらしい。
だが、敗戦で父は教職を失い、学校にいられなくなった。市民の一部で、日本人に対するこれまでの鬱憤を晴らすかのように投石などの報復の動きがあったが、父は王さんの自宅にかくまわれ、難を逃れた。

王さんは話す。
「先生に指一本も触れさせない!」と宣言して父を守ったと。
さらに、「ほかの日本人と違って、中澤先生をみんなが大事にしたんだよ」 とも言った。どうやら父はみんなに慕われていたようなのだ。

とはいえ、日本人へのいやがらせなんてほんのわずかであったと思う。なぜかといえば、あれから半世紀以上もたった今も台湾の多くの方々が日本に心を寄せてくださっているのだから。
むしろ、日本が去ったあとの方が厳しかっただろう。何しろ日本が去るまでは、家の鍵をかけなくても安心できたほど治安が良かったのが、去ったあとは戸締まりしなければ安心できなくなった、とは、我が家を訪れた台湾警察の偉いお方のお言葉だ。このお方も、もちろん父の教え子さん。

復員した父は恩義に報いようと、王さんに幾度も便りを出したが返事がなく、20年くらいたってから思いがけず返事が来た。王さんの奥さんが勤め先の郵便局で、行き先不明で処分する寸前の郵便物の中に、偶然父の手紙を見つけたのだ。父の手紙が王さんに届かなかったのは、終戦で住居表示が変わったからであった。

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              王春財さん(左)と父中澤芳男

こうして手紙のやり取りができるようになると、人の往来も始まった。教え子が家族を連れてきたり、団体で訪ねてくるようになった。父も家族を伴って出かけていった。
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                 王さんと私

台湾からは、東京の私の家にもお出でになったこともあり、お会いした皆さんは口を揃えたようにこう言うのだ。

「日本語を忘れないように頑張った。今でも、思うこと感じることは日本語になる」と。

王さんも暇を見つけては港に行って日本人に話しかけたという。「いつか先生に会ったときに、日本語が話せないと申し訳ない」とのことだった。後で述べる「台湾歌壇」にこんな歌が寄せられている。

  両親もはやあの世逝き
     寂しき日はひとり口遊む(くちずさむ)日本童謡  陳清波

この歌は台湾の日本語世代の心情をよく代弁している気がする。

父の教え子の中でも、とりわけ私の脳裏を離れないのが游細幼さんだ。
細幼さんは幾度か新潟の家を訪ねておられるが、東京にいる私はお会いしたことがない。それどころか、あるきっかけまではお名前さえ知らなかった。
2005年の頃に、新潟の兄嫁から細幼さんの短歌のことを知らされ、急遽インターネットで調べると、游さんの短歌が大岡信氏によって選ばれ、朝日新聞の「折々のうた」に載っていたことがわかった。その情報は台北歌壇代表の高阿香さんがお書きになった「交流之旅報告書」の中にあったのだ。
 触れしバラの針柔らかし
  たまゆらを胸に萌えしし刺を悔い居り

この作品が新聞に載ったことで台湾の短歌が日本で脚光を浴び始めたという。
私はその歌が掲載された新聞をこの目で見てみたかったし細幼さんのことも知るために、日台交流協会にメールで問い合わせ、次のようなお返事をいただいた。

朝日新聞の日付はわかりませんが、『新折々のうた1』
(岩波新書、1994年)60頁に収録されています。
転載元の孤蓬万里『台湾万葉集』(集英社、1994年)261〜267頁には游さんの半生と歌が収録されています。

早速探したが書店にはなく、その無念の思いを細幼さんに手紙したところ、細幼さんの歌友でいらっしゃる荘清冷さん所蔵の「台湾万葉集下巻」を送っていただいた。感謝、感謝。
おかげさまで台湾の日本語世代のご苦労や心情を少しながら知ることができた。
父の生徒さんだった游細幼さんは、台湾歌壇の重要なメンバーのお一人であり、1999年11月に歌人訪日団の一員として来日し、俵万智さんや大岡信さんと交流されていたのだ。残念なことに、父はその同じ年の2月に、すでにこの世を去っていた。
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高阿香さん報告書表紙             清冷さんから頂戴した台湾万葉集下巻

「台湾歌壇」は呉建堂氏が設立したのだが、その呉氏が学生時代に師事したのが、かの有名な犬養孝氏である。後に万葉学者として有名になった犬養氏の三十五歳ころのことである。

その同じ頃に、父が細幼さんを教えていた。

呉建堂氏が高等学校で、日本の教授である犬養氏に習い、
游細幼さんが国民学校で、日本の訓導である中澤芳男に習ったのである。

このお二人が、後に「万葉」という架け橋を得て「師弟の絆」を得たのだった。


ここで犬養孝氏についてすこし書いてみよう。
犬養孝は1907年4月1日に東京で出生し、熊本の第五高等学校にいたときに初めて万葉集と出会い、その美しい言葉、躍動的なリズム、表現力豊かな心象風景などに魅惑された。
1932年に東京大学を卒業後、神奈川県立横浜第一中学校(神中)に奉職し10年間教鞭をとり、そのあと台湾の台北(たいぺい)高等学校の教授になった。教え子の中には、後に台湾総統となる李登輝氏もいたという。
終戦後、帰還船で和歌山に上陸した。そして、万葉集の歌の宝庫である関西に居を構え、大阪大学で教えたのだが、1950年のころから、万葉集を理解するために実際に現地を歩くという研究スタイルを確立させていった。
その考え方に共鳴した学生たちが万葉集の故地を歩くツアーを提案した。これは「大阪大学萬葉旅行」として、犬養が死去するまで50年近くにわたって250回以上も続けられたという。
犬養の万葉集研究は多くの人に影響を与えた。論文や著書を書くほかに、文学になじみのない一般層に対しても万葉集を広めることに努力した。万葉集の一首ずつに独自の節をつけ、それを人々の前で朗誦することにより、万葉集を一般向きのものとした。こうした活動は多くのアーティストに影響を与え、歌手のペギー葉山や、「天上の虹」を描いた漫画家の里中満智子も、犬養孝が原点だという。
これらの業績は多方面から評価され、1978年には勲三等旭日中綬章を受章、翌年の歌会始には宮中に召され、昭和天皇の御前で歌を読み上げられた。その年の12月4日には、奈良県明日香・甘樫丘の上で昭和天皇をお迎えし、御進講を行った。1987年には文化功労者に叙せられた。そして、死去した1998年10月3日には、正四位勲二等瑞宝章が追贈された。

こうした来歴の犬養氏だが、台湾で万葉を教えたのは三十歳代のときで、懸命に万葉集を講義したとご自身が述べている(台湾万葉集下巻の序文で)。その熱意をしっかり受け止めたのが呉建堂氏であった。
その呉建堂氏が、「台北歌壇(後に台湾歌壇と改称)」を創刊し、主宰した。これも、やはり日本が台湾に施した日本語教育の成果といっていいだろう


呉建堂氏(筆名は孤蓬萬里)の来歴を記しておこう。
1926年四月台北に生まれる。台北二中の四修で台北高校理乙に進み、台大医学部に入る。終戦後改制された台大医学院を卒業。1971年三月「双生児の研究」で熊本大学医学部より学位記を授与される。JCIのベトナム救済運動中華民国医療隊隊長、基隆市立医院院長、省立苗栗医院院長、省立宜蘭医院院長、省立花蓮医院院長を歴任して1992年五月定年退職後、台湾地区婦幼衛生中心の主治医師を務める。剣道八段教士、第3回世界剣道選手権個人三位。なお、宮中歌会始に招かれて詠んだ歌がある。
昭和四十二年東京における国際親善剣道大会で、皇太子妃であった皇后陛下と言葉を 交わされ、後に「台湾万葉集」を献上した。現皇后陛下 は御返礼として宮内庁の藤森長官に指示されて「折々のうた」 という新聞記事を呉建堂氏に送られた。 そして、1996年1月12日、皇居における宮中歌会始に招かれた。 外国人が歌会始に招待されること自体たいへんなことであり、その話を耳に した台湾の日本語族の人々は驚喜したという。
「宮中の 歌会始に 招かれて 日本皇室の 重さを思ふ」
「国思ひ 背の君思ふ 皇后の 御歌に深く 心打たるる」
1998年12月、呉建堂氏は帰らぬ人となった。
1968年台北花壇を創刊。
著書に「テストと共に」「老い母ありて」「町医の日びに」「椰子のごとくに」「いのちのかぎり」(以上は歌集)「わが思ひ出」「竹刀と共に」「孤蓬萬里半世紀」「文武仁の旅」「花をこぼして」「人の心をたねとして」「続文武仁の旅」「台湾万葉集中巻」「台湾万葉集下巻」など。


私は台湾歌壇より同人誌を頂戴しているが、方々の詠歌や文言をみると高い日本語術を持っておられ、私などは圧倒されてしまう。これほど純粋に異国の文化を保ち得たのは、方々の努力研鑽の賜にほかならない。しかし、その礎となったのが日本の統治であったことを思うと申し訳なさで胸がいっぱいになる。方々がうけた悲喜こもごもを歌に詠み続けるお姿に感動せずには居られない。この上は、台湾歌壇が世代をつないで末永く隆盛することを願うのみ。

とはいえ台湾の日本語世代の方々にとって、日本は、きびしいながらも正しく指導する父親のようなものだったかもしれない。だから感傷めいた言葉を使ったのではあの時代の真実を見つめ得ないと思う。いつの時代もそうだろうが、あの時代、誰もが与えられた環境に適応しようと真剣に生きていた。戦争に導いた者たちも止むに止まれぬ判断をしたのだろう。

ところで万葉の文字って、なぜ難しいのだろう。それは、あの時代が日本の国語が完成していく途中だったからだ。日本には神代文字があったが、漢字を推進した聖徳太子によって撲滅が図られ、心ある者によって隠されたものが残っただけである。わずかに残されたものが後に発見され、解読したのが「ウエツフミ」なのだ。
この、聖徳太子のこだわりによって、ことばが漢字で表記されることになるが、発音を漢字で表すために「借字(しゃくじ)」という方法がとられた。しかし、これでは文章が漢字の羅列になって区切りがわからない。ところが五七五七七と区切ることが決まりの和歌なら利用できた。そこで「借字」のことを「万葉仮名」とも言うのだ。万葉集にはそういった背景がある。
さらに言えば、日本語の助詞や助動詞に当たるものが漢文にはない。そこで、漢字の画数を減らしたものが登場して次第に仮名文字ができていくことになる。

次は父のことだ。
父・中澤芳男は明治三十九年生まれで、教育者として生き九十二才で天寿を全うした。
父の記によれば、家は反別合計30町歩の地主であった。父はこの家督を十五才で継いだ。しかし教育にも興味を持ち、紆余曲折を得て教職についた。1930年のことで、三条尋常高等小学校の訓導である。
1941年9月、国の命令で台湾基隆市の宝国民学校の訓導となる。
1945年4月、帰国して小中学校で教鞭を執り、
1952年に校長試験を受けて合格した。新潟県で合格した二人のうちその一人である。校長として初めての任地は滝之又小学校。最後の任地は長岡市の濁沢小学校。勤続四十二年
八十八才のとき勲五等双光旭日章受賞。日付は平成六年九月一日、総理大臣は村山富市

十五才で地主になった父は、教員をしながらも小作たちと合理的な生き方について調停を結び、地主の税金と小作の肥料代との調整や、双方の子供の教育費について計画実行するための貯金組合「安節会」を、諸橋忠雄氏の積極的な効力のもとで設立し、集会所も建てた。
ある時期、周辺が小作争議で揺れたが、周辺最大の地主である父の東本成寺だけは平穏だった。

ところで教職が父の天職となっていく様子の記録が見つかった。それは二十歳の頃に自身が書いた「若草萌ゆる春べの心」(←クリックで開く)である。

と言うことで、私ら七人きょうだいは幼少期の5年間父を見ないで育った。ところが、きょうだいの年齢差が最大12年もあったので、父のいない年齢がそれぞれに異なるために父との関わりと想いがそれぞれに違っているし、父にしても同じことだったと思う。たとえば、父の脳裏から私という存在が完全に欠落してしまったという事実がある。

「お父さんは弟のほうをお前だと思い込んでいる」と、母がいつも私にこぼした。理由はこうだ。
父が日本を離れたときの私の年齢と、帰国したときの弟の年齢が似ていたからなのだ。父のその錯覚は年齢を重ねるほど深まって、母がいくら訂正しても効果なく、ある期間の記憶が弟のこととして父の中に確立していった。つまり父の中には、私との思い出が存在していない状態でこの世を去ってしまった。
父の中から私が消えたのは戦後の混乱期に限っている。私の存在は認めるけれども、帰国直後の数年間に関わったことすべてが弟とのこととして父の胸の内にしまわれてしまったのだ。

父は台湾の子供たちを真剣に教えるあまり、私が成長していることに意識が及ばなかったのだろう。これも環境が織りなした宿命と言うべきなのか。

游細幼さんに話を戻そう。
その前に、まず游細幼さんにお礼を申し上げなければならない。実はつい先日(2011.10.25頃)インターネットで偶然見つけたのが細幼さんのメッセージだった。

「日本東北の皆さま頑張ってください!故郷とも思っています」

游細幼さま有り難うございます。

先にも触れたように、游細幼さんは1999年11月に歌人訪日団の一員として来日し、俵万智さんや大岡信さんらとも交流されている。2005年には日本経済新聞に三首が取り上げられ、台湾歌壇のことが紹介された。
下のは、その時に私が記録したメモだ。
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 次の三首は日経新聞に載ったもの 

 とろとろに母の炊きたる芋粥(いもがゆ)を
   すすりし遠き日のはらからは

 御祖(みおや)の地もぐりて実る藷っ子は
   命はげまし古賀守る

 幸せにいること告げむ文書けど
   君は春けき銀河の都

また2006年5月、細幼さんが74歳のときに歌集「薫風」を出された。その中の一首が選ばれて朝日新聞の「折々のうた」に掲載され、大岡信氏より好評を得ている。

 触ふれしバラの針柔らかし、
  たまゆらを胸に萌しし棘を悔い居り

それに、台湾歌壇が日本に知られるきっかけになった、詠歌もある。残念でならないのは、父がそれらを見届けなかったことだ。
父が存命ならどんなに喜んだことだろう。

彼女の歌集には「恩師を訪ふ」と題して14首ある。亡き父への熱き心情が吐露されていて、私はとてもうれしい。そして彼女の活躍を誇りに思う。詠歌の一部を抜粋しよう。

恩師を訪ふ
ほのぼのと夜の明け来たり朝光に稲穂のなびく越後平野ゆく

しんしんと朝霧流るるその中に植田めでつつ弥彦へ向ふ

朝光りまぶしき中を師と歩む弥彦の森の万葉の道

手毬つく音の聞ゆる錯覚に良寛の里に今日は遊びぬ

ひたすらに教育事業に献身して勲五等受賞の恩師を祝ふ

台湾を故郷と恋ひ教へ子を吾子といとしむ傘寿の恩師

師の賜びし受賞記念の印籠の菊の御紋をまぶしみて見つ

「み諭しの旅路は今朝もすこやかに」朝毎に師の口ずさむ言葉

耳遠き師となごやかな筆談にゐるその嫁の笑顔やさしき

万一の延命処置を拒むとふ師の遺言にその嫁泣かす

寝たきりは絶対いやと語る恩師眠るがごとき逝く雪の夜

うつし世の師の念願の如月の望月に天寿を全うして逝きぬ

ひたすらに母と姉とも思ひたり小学の師は花屋敷に住む

今なほもひとり旅する米寿近き師の独り居に思ひ走らす


先にも触れたが、游細幼さんは1999年11月に歌人訪日団の一員として来日し、俵万智さんや大岡信さんらとも交流されている。その団員の中に林美さんがおられるが、細幼さんを台北歌壇(現台湾歌壇)に誘ったのが林さんだ。また、台北歌壇の生みの親である呉建堂氏のお嬢さん、呉玲美さんも同行されている。

残念ながら同じ年の2月に、父は他界してしまった。・・・師弟の熱き絆をもういちど繰り返して読みたい。

ひたすらに母と姉とも思ひたり小学の師は花屋敷に住む

台湾を故郷と恋ひ教へ子を吾子といとしむ傘寿の恩師


つぎのような訪日の記録がある。


   台湾万葉集女流歌人訪日団2001年8月16日作成
(財)交流協会に地帯交流センターは、1999年11月18日〜25日にかけ、7名の台湾万葉女流歌人一行を婦人交流の一環として招聘し、俵万智さんをはじめ日本の歌人や歌人団体、及び大岡信さんなどの文化人との交流を行いました。
その団員たちから、その交流を通じて感じたことを万葉の歌をちりばめながら流麗な日本語でしたためられた訪日記が寄せられましたので、訪日日程・団員名簿とともに紹介します。
メンバーは 高阿香さん、游細幼さん、林美さん、陳瑞卿さん、荘淑貞さん、呉玲美さん、杜淑玲さん

訪日日程
11月18日(木)午後 台北↓東京 東京泊
11月19日(金)午前 都内視察
午後 俵万智氏と意見交換・懇談
と交流協会表敬訪問 東京泊

11月20日(土)午前・午後 鎌倉視察
夕刻 現代歌人協会理事長篠弘氏と意見交換・懇談 東京泊

11月21日(日)午前 「草原」浜口英子氏との懇談
 午後 「山の辺」(主宰・・高蘭子氏)との懇談・歌会  東京泊

11月22日(月)午前 東京↓山形
午後 山形視察(斎藤茂吉記念館参観)
諭告 山形歌人クラブ等との意見交換・懇談 山形泊

11月23日(火)午前 蔵王視察(大久保義彦氏・安部英子氏協力)
 午後 山寺視察(山寺芭蕉記念館・立石寺参観)
 夕刻 山形日華親善協会会長工藤菊太郎氏との意見交換・懇談 山形泊

11月24日(水)午前 山形↓東京
 午後 日本歌人クラブ藤岡会長等との意見交換・懇談
    ・・・・大岡信氏との意見交換・懇談
 夕刻 後藤理事長主催夕食会 東京泊

11月25日(木)午前 東京視察  午後 東京↓台北

訪日団員名簿(全員女性)生年と所属
1、高阿香1926年 台北歌壇代表
2、呉玲美1953年 呉建堂台北歌壇前代表令嬢
3、游細幼1930年 台北歌壇編集委員兼会計
4、林 美1921年 台北歌壇編集委員
5、陳瑞卿 1931年 台北歌壇会員
6、荘淑貞 1924年 台北歌壇会員
7、杜淑玲 1954年 台北歌壇特別会員

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