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zoom RSS 若草萌ゆる春べの心1

<<   作成日時 : 2011/12/13 07:10   >>

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若草萌ゆる春べの心 作者 中澤芳男

    誤解
誤解! 私はこれをどんな風に考えたことだろう。
誤解! 何によって解かれるものであろう。
誤解! 何によって生ずるものであろう。
     私は深く考えさせられています。
     ーーー・・・ーーー

「二十二日、今日は姉ちゃんの命日である。静かに冥福を祈り、若くして去りし賜し姉を父の傍らに見つめる。写真でなかったならな。
学校という社会はなぜ僕を入れてくれないのだろう。軽い不安がよぎってきているようだ。だが小林先生だってぼくを知っていてくださるはず、でも今日? いや、ちょっとした話なのだろう。
カラカウ? こんなものかもしれない。


三年、長かったな・・・
僕が十九歳から二十、二十一。子供が九歳から十・十一、早いとも思われるものだ。僕の年と子供の年が一致している。離れられない運命かな? 
指を折りながら電灯のスタンドを眺めた。放射線状に進む光の中に七十四人の一人ひとりの顔が映る。ゆるぎない心はクラスの各児童に強い愛着を持っていた。書籍の指は幾度か動いたが、ページは頭に残らなかった。一昨年の今頃大野先生が「あんたなどまだ若いから知らないのです。いやこんなこと知らない方がいいのです」といった言葉が妙に心を捉える。僕は窓を開けて冷気に心を静めようとしたが不可能だった。
落ち着かない夕べを無味に思いながら伏床《ねどこ》に入る。走馬燈のような白い浮き彫りがさかんに脳裏をかすめる。
義雄は日誌をつけてねむった。
義雄はS小学校の訓導である。
S小学校は新潟県下最大の校舎と八十余の教員を有する一大社会であった。校舎は第一部第二部第三部に分かれて合計五千余百の生徒を有していた。
校長の主張主義が遺憾なく発揮されて校の名は運動に学問に県下の首位を占めて正確な機械の如く予期した結果を納めていった。校長はよく各部を回っては、自らの主義を吹聴《ふいちょう》した。この学校は大家族制度を標榜《ひょうぼう》しているのであるから一身上の問題であろうと、公事であろうとも遠慮なく自分なり部長なりへ申し出たがよい。自分たちは父となり母となり問題の解決に専念するであろう、と。彼は幸福を感じていた。今までに彼を煩悶せしめた事件ももう再び来ないだろうと思った。
時々同輩の不平を聞いて、そのように陰で憤慨せずとも部長や校長に苦哀《くちゅう》を述べたらよさそうなものを、と侮《あなど》りさえ生じかえって可哀想な気持ちさえした。

「一月二十三日、父の命日、五年前の夜が再び近づいていたような気がする。
父が臨終されたとき! お顔
白い木綿もめん 水 すすり泣き 燈火。
 仏壇の御写真は静かだ。
だのに、 自分にはなぜ落ち着きがないんだろう。父の御目が二重になったり三重になったりして見える。お稲荷様へいつものようにお詣りするのに せせこましい胸の動悸がする。何かの前兆  昨日のような話がもっと深刻にならねばよいが、遂に、
『勝手にせい』
『俺だって男だぞ』 彼はこれだけ漸く記して蒲団をかむってしまった。
  凡《すべ》てを呪って。
    *** *** *** ****** ***

    *** *** *** ****** ***

  大正十三年三月
彼はS中学を卒業した。彼の卒業を喜んでくれる者の数は淋しかった。老母と老下男とやっと小学校へ通う二人の姪のほか遠くにいる義兄だけだった。
父は五年前に病没していた。それが原因で中学四年の三月早稲田高等学院の試験に通過しながら一ヶ月くらいで帰らねばならなくなったのだった。母は病んでいた。母を助ける誰もいなかった。
「お前の姉ちゃんが生きていてくれたら」
母は口ぐせのように言っていた。彼はそういう母を不憫《ふびん》に思った。 
親展書は何度も東京の彼の宿に届けられた。封を切るごとに彼は泣いた。
「お前の出郷は攻めない。中学の小杉先生のお薦めだとお前は言っている。先生のお言葉に背くことはいけない。お前が私に黙って受験したことも脱出めいた出奔もお前の向学心からであるのなら何も言いますまい。 しかしお前も子供でもあるまい。家庭の事情は考えねばなるまい。東京のみが学問の巷でもあるまい。独学の精神があってこそ成功するなるに、私は老いたばかりではない。病には勝てないのです。せめて達者であるならお前の望みも達してあげようものを。 義雄や帰っておくれ、お願いだから。待っているからね」
彼は上野の下宿でこの手紙に接した。手紙に顔を伏せて泣いた。
中気の母の病んだ目が見つめている。
座敷の庭のスイトピーが呼びかけている。と思うと二人の姪が飛び出してきた。花壇をめぐっている。   
母の声がする。『義雄や帰っておくれ』
ガラス戸が映る。鶏の声がする。長閑《のどか》な春の野良に立つ村の若者の元気な姿が浮かぶ。やる瀬ない淋しさが故郷にあこがれしめる。
『お母さん許してね』!
「姉ちゃん。なぜ姉ちゃんは死んじゃったの?」
「僕は正しいのです。お母さん! 僕はお母さんに黙って来たのではなかったのです。あんなに幾度もお願いしたじゃありませんか。でもお母さんは許してはくださらなかったでしょう。叔父さんもあんなに頼んでくだすったのに、僕は全然悪くなかったとは申されませんが・・
 でも! 
あぁー・・・
では  お母さん僕は帰ります。待っていてください」
彼は夕方最後の別れに(早稲田)高等学院を訪れた。先生に事情を打ち明けて訴願した。先生は、国へ帰って母の許しがあったらまたお出なさい。それまで名簿消さないでおきましょう。返事をください。
彼は感謝した。
一ヶ月に満たない浅い縁《えにし》につながれた彼は永久に記されるであろう名簿を有すだろう校舎のほか別れを告げる友人もなかった。レングワの記念館に思う存分名残を惜しんだ。
「お母さん僕は帰ります」 
三条へ着くまで一睡もしなかった彼はプラットホームに立つことは困難であった。道々不思議そうに挨拶する人々にきまりわるく思いながら家に着いた。
母は大変よろこんだ。
彼は一休みののち、中学校に小杉先生を訪れ一部始終を話した。
「仕方ない、君の今後の努力です。しっかりやり遣りたまえ、失望するでない」
懇《ねんごろ》に諭された。彼は大変感に打たれた。
一度退学した中学校へ五年生として通学することができようか。
心配しながらお願いに出た。
S中学の校長は坂巻善辰といった。文学士であり、情の厚い人であった。禅家に修養された先生は様々な世相に通じていた。県下でも不便な古志種芋原のへき村から身を帝大にまで踏んで今日の地位を得たのである。先生の潔癖は先生をして他に見る外面上には何ら成功は認められなかったけれども徳を持って人を率いる人格の人であった。飯田前校長の後を受けて、二十年間中堅学徒の指導に全力を注いでいた。先生は枯木のようなお躰をさすりながら健康論を主唱された。
昔は弱かったんだよ、だが見よ修自修養によっては今日の生命を得られるのだ。俺のこの腹を見よ。田下に力無きものは人を入るる器ではない。
こういっては腹鼓を打って生徒を感心させていた。
先生の主義は田下の力にあった。
堅実な歩みは田下の力にある。
自治の精神は堅実な歩みによって成なる。
そして忍耐寛恕《にんたいかんじょ》また然しかり。
成功は其処《そこ》に芽生《めば》ゆ・・・といっていた。
彼は校長室で小杉先生と嘆願した。(校長)先生は彼の様子をじっと見つめていた。
「許可しよう。学校に入るばかりが成功でなかったはず、私の言ったことをしっかり聞くがよかろう。お前の田下に力があったかね」。
彼は頭《こうべ》を垂れた。
「俺は今までの行為をなすに当たって田下に注意したであろうか。ただ成功は上京にありと考えていただけだった」。
人は各々行くべき路が異なって開けている筈である。
彼はあらためて先生の教室における言葉を想い出した。
そして校門を出た。
春日は麗《うらら》かだった。
彼には明日より友とする書籍(教科書のこと)は一冊もなかった。野島書店に行ったが生憎《あいにく》英語のリーダおよび漢文のほかは売り切れてなかった。彼は書店を出たが当惑した。暗いとばりが寄せてくるように感じた。
 先生の声がする 田下の力
 東京で勉学する 人々の顔
 北海道の話をして下さった森教諭
 明日からいっしょに勉強する同窓の友。
 一年後の自分。
 一年後の友。
・・・俺はやはり上京するかな?
 浅野君は美術へ行くと言っていた。
 田村君は高等学校に行くと言っていた。
 村山君は長岡高工に。
  自分は? 
先生は上京や学校ばかりが成功の基でないといっていられた。
 母は独学の意気がなくて何になる? 
 といっていられる。
 数年経た後の友人が浮かぶ。自分を想像  する。
 彼はたまらなく悲しくなった。
彼はふと明日の書籍のことが心配になりだした。誰か友人を訪ねてみようか。彼は日吉町の角を歩いていた。彼は三輪氏を訪ねて相談しようと思っていたのであった。
八幡様の鳥居を右に折れて右側に黒塀のめぐらせてあるがそれだ。三輪氏は此処に宅を構えて長い間S小学校に奉職して居られた。
彼が訪れた時はまだ主人は帰られなかった。下男が取り次ぎにでた。勝手知ってる彼は座敷へ上がって氏の帰りを待った。下男がお茶を入れてくれた。何時頃お帰りか? と尋ねた。 
もうすぐですと下男が答えたとき家の戸が開いた。下男は立って出迎えた。
彼も立った。
「これはよく来ました」
「ちょっとお願いしたいことがありまして」
「そうですか。まあお座りなさい」
氏はまもなく和服に着替えて座に着かれた。五十位と思われる体躯のやせた氏の面には常に微笑があった。ゆっくり茶をすすりながら、
「お母さんは?」
「有り難うございます。お陰様で余り悪くないようです」
「お大事になさい。 して学校は?」
「それで・・・」
彼は言いにくげにもじもじしていたが思い切って言った。
「あの突然ですが・・・」
彼は帰る(早稲田をやめる)ようになった一部始終を語って書籍の本屋になかったことを話した。
「それで哲次さんの本(教科書)を貸していただきたいのですが」
氏は話の途中、しきりに「なるほどなるほど」を繰り返していた。そして話の切れたときに、
「ご道理なことだ。お母さんもあなたがいなかったら淋しかろう。若いうちは上京したがるものであるけれどもが要するにそれは自己の意志一つにあることでね、どうにでもなることなのです。私も若いときは大分苦しんで勉強したものです。学校へ入って勉強したのではあるけれどもが並大抵のことで自分の思う勉強はできるものではないものです。今お母さんはあなたから出られることは、病気のためいけないのではあろう。けれどもがまた一年後になれば何とかなろうからゆっくり五年を終了することですね。哲次の本はいくらでも貸してあげましょうからお持ちなさい。今に花枝が来たら出してもらいますから」。
彼はよろこんで本を借りた。
「ではいずれ又まいります」
「まあ急がんでいいから夕食でも食べて行きなさい」
「はい」
「あんたの兄さんか姉さんが存命なら、こんなこともなかろうけれどもが残念なことをしましたね」。
彼は兄姉三人を持ちながら一人ぽっちになったことを淋しく思った。
「あんたは兄さんを記憶していますか」
「いいえ、私はまだ生まれていなかった頃のことですから」
「ふうむ、潔君が十一の年に死なれたのだから成るほどなるほど。大分元気な子でしたがね、とうとう死んでしまったからね。あんたによく似た人でしたよ。家《うち》にいた頃は大変勝ち気でね、人に負けることの大変嫌いな性質《たち》でしたですな、けれどもが小さい者は大変可愛がっていましたよ。いわば義心の厚い方でしたですな。
姉さんも従順な人で先生になってからも生徒に慕われたですな。尋常一年の時から四年まで私のところに居られたのですが、一度言い聞かせたことはすぐ実行し背くことがなかったですな。死なれたことは誠におしいことをしました。二人とも仲のよい兄妹で、兄さんが下駄を汚してくると、よく洗って乾かしていましたですよ」
彼は氏の話を聞き見ぬ兄さんを憶い姉さんの死をうれい現在の自分をはかなく思った。
家では母が彼の帰りを待ちあぐんでいた。
明くる日の教室に彼の姿が見えた。
   *** *** *** ****** *** 
 *** *** *** ****** *** 
   つづく

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